6月22日(金)

 明け方から何度も目が覚め、身体はだるい。
 腰や節々が痛いようだから、たぶん風邪なのだろう。
 昔から風邪ぐらいなら、歩けてしまう強靭な精神力がときどきおぞま
しく感じるときがある。
 案の定、ユンケルを飲んだら、歩けそうになって来た。

 午前9時12分。京都駅。
 危ぶまれた雨のほうは、曇り空のまま。いまにも降りそうで降らない。
 右手にカートを持つと、左手で傘をさすこともできない私なので、雨
は必要以上に天敵だ。でもせっかく珍しくも、京都のマンションから、
ビニール傘を持って来たのだから、ちょっとは降ってほしい気分だ。
 いつもは出発点で雨が降っていなければ、絶対に傘は持って行かない。

 のぞみ3号で、まずは広島駅に向う。
 車中、京都駅で買ったお弁当を食べる。
 昨日、パン食のあげくに、原因不明の震えに苦しんだので、少しでも
パワーを身に付けようと、ハンバーグ&海老フライ弁当。
 まあ、学生食堂よりは美味しい程度の味。

 午後10時47分。広島駅着。
 早いねえ。のぞみ号は、本当に。
 京都から岡山まで1時間。さらに広島まで30分。
 すごいことだよ。みなさん、もっと新幹線を利用した旅を。

 午後10時52分。広島駅。向かい側に停車していた、ひかり177
号に乗り換える。新幹線は便利になったのだが、従来のこだま号の本数
がすっかり減ってしまった。ひかり号は、広島から小郡(おごおり)、
小倉、博多しか停車しない。
 途中の新岩国、徳山、厚狭(あさ)、新下関へは、こだま号でないと
行けなくなってしまったのだが、その本数が滅法少なくなって、在来線
の鈍行のようだ。

 午後11時31分。小郡(おごおり)駅着。
「おごうり」では変換してくれないので、「おごおり」でいいのだろう。
 発音してみると、間違いなく「おごうり」と言ってしまうのだが…。
 いや「おごーり」か。

 小郡(おごおり)駅というのは、不思議な駅で、電車の乗り換えだけ
に存在する。名物があるわけでなし、産業が発達しているわけでもない。
 宇部線、山陽本線、山口線への乗り換え駅として、重要なだけだ。
『桃太郎電鉄』のローカル版でも、☆印カード売り場にするしかないだ
ろう。
 小郡まんじゅうというのがあったが、体調不良につき食べることでき
ず。 
 
 午後11時48分。小郡(おごおり)駅で、在来線の山口線に乗り換
える。
 この山口線は、休日になると、SL列車が走ることで、鉄道ファンに
は有名である。幼少の頃、ごくあたりまえに汽車に乗ったことのある私
はあまり汽車に興味は無い。煙がつらかったという印象しかなかったか
らだ。
 この辺が、私が鉄道マニアではない所以だ。
 私は単なる地理マニアなのだ。
 クハとかモハといった列車の呼び方もちゃんと覚えていない。

 おき4号という、いかにも轟々(ごうごう)と苦しそうな音を立てそ
うな特急に乗る。特急といっても、指定席、喫煙席、禁煙席の3輌編成
である。
 ブブブブッ!と、ディーゼル車特有の音を立てながら、車体を揺らし
て走り始める。一気に気分がローカル色に染め替わる。
 車窓から、ゴルフ場のグリーンのように美しい水田が広がる。
 水田の水面(みなも)が、磨き上げた鏡のように空を映し出す。
 こういう田園風景を走る電車が、旅の醍醐味だ。

 午後12時。山口駅着。
 小郡駅から、わずか12分で、県庁所在地の山口市である。
 県庁所在地なのに、何で新幹線を通さなかったのだろう。
 いかにも地味だ。地味なわけだ。地元の人に聞いたところによると、
山口市は人口わずか15万人で、47都道府県のなかでもいちばん小さ
いんだそうだ。
 司馬遼太郎さんの『街道をゆく1』(朝日文庫)にこんなことが書い てあった。  山口県というのは自然がまろやかで、気候は温和であり、お行儀や言 葉づかいの品のよさというのは日本のどの県よりもよく、一県に、なお 武家の気品というものが地熱のようにして残っている。  なるほど。私の長年の友人である漫画家の山本貴嗣(やまもとあつじ) と、『メタルマックス』、『天空のレストラン』の作者・宮岡寛(みや おかひろし)の同級生コンビは山口県人であるが、異様なまでに言葉づ かいが丁寧だ。  司馬遼太郎さんの言うとおりだ。  とくに宮岡寛(みやおかひろし)のやってることは御下劣なのに、妙 に上品でお坊ちゃんっぽいのは、単なる体質だったのか。さらに宮岡寛 (みやおかひろし)の直筆の原稿はお公家さんの出か?とおもえるほど 流麗である。  県民性というのはおもしろいね。  山口もまた小京都と呼ばれる町だけに、清潔で時の流れがゆるやかな 町だ。  とくに、この地を治めた大内氏が、京都をお手本に真似たというだけ あって、八坂神社もあって、祇園祭りも行われるそうだ。  町のまんなかを流れる一の坂川は、京都の鴨川に見立てているといっ た念の入れ方だ。  午後12時15分。駅前からタクシーで、山口市歴史民族資料館に行 く。  この博物館には、いわゆる石器時代の鏃(やじり)といった民族的な 歴史物が展示されているのだが、ここに明治維新の功労者・大村益次郎 の遺稿が展示されている。
 大村益次郎(村田蔵六)というのは、町医者から身を起こして、明治 維新のときに、幕府との戦争で、参謀司令長官を務めた。司馬遼太郎さ んの『花神(かしん)』の主人公としてのほうが、NHKの大河ドラマ にもなったので、有名だろう。  固い言い方をすれば、近代日本陸軍の創設者で靖国神社の創建に力を 尽くした人。明治26年、日本で最初の西洋式銅像として、靖国神社に 建てられている。  村田銃という名前にもその功績が残っている。  とにかく、「火吹きだるま」と呼ばれ、そのガチガチの堅物ぶりが際 立つ人だった。遺稿にもそれが現れている。  1866年四境(しきょう)戦争のときの大隊への命令書だ。  九ッ時ヨリ  八ッ時ニ 入湯       飯酒  八ッ時ヨリ  六ッ時迄       午睡  六ッ半ヨリ       食事  五ッ時  発足  お風呂に入る時間や、昼寝の時間まで決めているのが、いかにも大村 益次郎らしいところだ。明治維新はまだ近代戦術が整っていない時期だ から、こういう規則があることに驚きを感じる。 「発足」というのは、出発という意味。夜中に行軍したということだ。  山口市民族資料館を出て、町に向って歩く。  大内塗(おおうちぬり)、大内人形といった看板が目立つ。  毛利氏の前にこのあたりを治めていた大内氏がこの地にもたらした影 響は本当に大きいようだ。  この大内氏が、庇護したのが、あの有名なフランシスコ・ザビエルだ。  フランシスコ・ザビエルは、宣教師としても有名だが、失礼を恐れず に書くが、ギャグ業界では、あのアルシンド頭として、多くの笑いを提 供してくれた。  そのサビエル記念聖堂に向って歩いている。  どうもこのあたりでは、ザビエルは「サ」ビエルのようである。どこ を見てもサビエルと表記されている。私はどうもザビエルと濁音で暗記 してしまっているので、違和感を持つ。  スペイン語はよく知らないのだが、ザビエルのスペルは「XAVIE R」と書くそうだ。何だかスポーツ・ジムの名前みたいだな。なるほど、 これなら「サビエル」と読むのだろう。  けっきょく、あとでわかったのだが、両方の表記があるらしい。偉人 伝のタイトルにも、フランシスコ・ザビエルと濁音表記のものが何冊も あった。  よかった、よかった。何がよかったのかわからんが。  サビエル記念聖堂の看板が見えて来た。  何だかここのあたりだけ異国情緒たっぷりだ。  ベーカリー・レストラン「サビエル・カンパーナ」とイタリア料理の 「ラ・フランチェスカ」が並ぶ。  あれ? どれもサビエル記念聖堂に見えるんだけど、どこだ?  えっ? この坂道を登って行くの?  うひゃあ! きょうは体調が悪いから、この坂道はきついよ。  でもせっかく来たんだから、寄って行きたいし。  汗が吹き出て来た。  昨夜の原因不明の震えのせいで、これが暑さによって出た汗なのか、 風邪による汗なのかよくわからない。  午後12時45分。サビエル記念聖堂にたどり着く。  コンクリート打ちっぱなしの荘厳でモダーンな建物だ。  汗びっしょりで気持ち悪い。
  クリスチャン記念堂とかいうのに入る。  ザビエルを描いた大きな絵画がずらりと並び、博物館というよりも、 宗教色が強い展示物だ。  2Fは、礼拝堂になっていた。  おお! このとき私は初めて立教大学のいんちきクリスチャンだった ことを思い出した。う〜ん。授業でキリスト教に関することを受けた記 憶も無いなあ。こういうことを書くと、同級生のムサシノ広告の伊東正 義に「おまえ授業受けていたはずだぞ!」といわれそうだ。  なにしろ伊東正義にいわせると、私は学部名も間違えて覚えていると のことだ。  どういう学生だったのだ、私は。  まあ、ミッション系の大学ばかり受験したのは、パイプオルガンの音 色が好きだったのと、女の子にもてそうだからという生臭い理由だった からなあ。  へとへとのばてばてになって、タクシーを呼んでもらうことに。 「礼拝堂を出てすぐの公衆電話で呼ぶことができます」と言われて、歩 いて行くが、無い。しばらく歩くがやっぱり無い。どこだったんだよ〜!  ああ! あのつらかった坂道を降りちゃったよ〜!  そのまま勢いで、山口市民公会堂まで歩き、さらにアーケード商店街 まで歩いてしまった。かなりの距離だ。やばいぞ、これは。腰が痛い。 真っ直ぐ歩けない。  午後1時30分。ベーカリー・カフェの「グリーン・パーク」に無理 やり入る。コーヒーだけでは申し訳なさそうなので、血糖値を上げるた めにも、フルーツサンドをつまむ。  かなり長い時間佇む。疲れた。  ほどなく、タクシーで隣町の湯田(ゆだ)温泉に向う。  おっと、ここで恒例のお仕事! 『桃太郎電鉄』のシミュレーションだ。 ●山口(やまぐち) ういろう屋・・・・・・・・・・・1000万円………50%・・食品 大内人形屋・・・・・・・・・・・3000万円………20%・・商業 大内人形屋・・・・・・・・・・・3000万円………20%・・商業 大内塗工房・・・・・・・・・・・3000万円………20%・・商業 大内塗工房・・・・・・・・・・・3000万円………20%・・商業  大内人形屋も、工房にしたほうがいいかな。  大内塗り工房と表記したほうが読みやすいかもしれない。  人形屋と大内塗に差が無いなあ。  もう一度。 ●山口(やまぐち) ういろう屋・・・・・・・・・・・1000万円………50%・・食品 大内人形工房・・・・・・・・・・3000万円………20%・・商業 大内人形工房・・・・・・・・・・3000万円………20%・・商業 大内塗り工房・・・・・・・・・・5000万円………20%・・商業 大内塗り工房・・・・・・・・・・5000万円………20%・・商業    ういろうは、室町時代に中国から伝わった製法をこの山口の老舗外郎 (ういろう)屋さんが守っているというから、幾星霜(いくせいそう) だ。  駅の売店では、夏みかんゼリー、夏みかんケーキ、夏みかんパイとい った製品が並んでいたので、物件に入れようとおもったのだが、タクシ ーの運転手さんに聞いたところによると、夏みかんは、萩だそうだ。  明治維新が成功して、武士がヒマになってしまった。  そのとき、アルバイトとして武家屋敷に夏みかんを植えることを、藩 が奨励したという。そのせいで、萩には夏みかんが目につくのだそうだ。  観光地のタクシーの運転手さんというのは、観光の一翼を担っている ので、郷土の歴史にくわしい人が多い。  この夏みかんのことを教えてくれた人に、山口駅に新幹線を誘致すれ ばよかったのにと話し掛けると、明快な答えが返ってきた。  何でも山陽本線を通すときに、山口市が汽車に反対したのだそうだ。  昔は、汽車の煙で町が汚れると、汽車の誘致に反対して、廃れた町は 非常に多い。そうか、この山口も反対組だったのか。  もったいないことをしたものだ。  けっきょく山陽本線の小郡駅が交通の要所になってしまって、新幹線 を通すときも、小郡駅しか選択肢が無くなっていたのか。  山口駅に新幹線が通っていたら、広島駅からわざわざ新岩国駅、徳山 駅と南下せずに、一直線に次の駅が山口駅になって、博多までの新幹線 が少なくとも10〜20分は短縮できたのでは?  しかも、山口はちょうど山口県のど真ん中にあるから、北は萩、津和 野、長門(ながと)、南は宇部、防府(ほうふ)、西は下関と、どこへ 行くにも近くなったはずだ。  NHKの『そのとき歴史は動いた』を毎週見ているのだが、そのとき 動かなかったときのほうが、歴史が動いてしまうことのほうが多いよう な気がする。明治維新に参加しなかったばかりに、割りを食った藩(国) はかなり多い。  人生もおなじだよなあ。  もう一歩踏み込んで、参加していればとおもうことは何度もあった。  午後2時30分。湯田温泉の中原中也(なかはらちゅうや)記念館に 行く。 『汚れちまった悲しみに…』などで知られ、30歳で夭折した中原中也 は、この町の生まれだったそうだ。  その作風から、もっと北の人を想像していた。  ここもまたコンクリート打ちっぱなしの実にモダーンな建物だ。大き さに違いがあるとはいえ、サビエル記念聖堂に似ているのが、単なる空 似ではないような気がする。
 疲れが出ていたせいもあるので、ここで30分間の中原中也のビデオ を座ってしっかり見てしまった。おかげで、その人生をかなりインスタ ントではあるが、把握することができた。  17歳にして、女優志願の女性と京都で同棲して、翌年には東京に出 て、詩作活動をして、そのうち、あの受験生の敵・小林秀雄にこの女性 を奪われてしまう。  どうも私はこの小林秀雄という人をいかすけないやつという印象を持 っているのだが、さらに憎悪が増してしまった。  しかし中原中也はこの間、ずっと親からの仕送りで生活していたのは、 いかがなものか。同棲時期も。  太宰治にしても、津軽の大きな家に生まれ、中原中也の家も軍医でお 金持ちだったようだ。どうも女性ファンの多い悲劇の作家は、裕福な家 庭の生まれが多い。  ひがんでいるわけではないが、何だかしっくりこない。
 ただ本当に中原中也は、女性ファンが多い詩人なので、記念館の作り が美しくて、見ごたえがある。平成6年というバブル時期に完成してい るせいもあるが、長州路を旅するときはぜひ寄ってほしい場所ではある。  それと中原中也が終焉を迎えた地が、鎌倉だというので、妙に親近感 が湧いてしまった。  カトリック由比ヶ浜協会、抄本寺、寿福寺などがゆかりの地か。  今度歩いてみよう。  何だかんだいって、私が若い頃、作詞家をめざしていたときに、中原 中也の詩集をずいぶんと読みふけったものだ。  私の場合、この作詞家をめざしていたときの学問がのちにかなり成果 をあげている。しかし残念なのは、そのほとんどがギャグという形とな って実を結んでしまったことだ。宿命か?  午後3時15分。湯田温泉のバス停から、急行バスで、小郡駅まで戻 る。  本来なら、このあと山陰をぐるっと回って、下関まで出てやろうとお もっていたのだが、さすがに体調不良につき、おとなしく次の目的地に 向うことにした。  午後3時35分。小郡(おごおり)駅。  本当にこの駅には何もない。  しばらく駅前を歩くが、何もない。  ここまで乗り換え駅に徹しているのは、清々しいくらいだ。  午後4時3分。ひかり377号で、小倉駅に向う。  この車輌は、レイルスターだ。  レイルスターは、ほとんどのぞみ700系とおなじ車体で揺れが少な いのだが、8両編成と短かった。でも利用客は多いようで、小倉までだ から自由席でいいやと特急券を買って来たのだが、危うく立ち席になる ところだった。
 午後4時24分。小倉駅着。  小倉といえば、小倉市民はみな善良であると、天動説のような偏った 説を唱える柴尾英令くんの生まれ故郷である。  きょうずっとどこに行っても、雨が降っていなかったのに、小倉駅に 着いたら、ぽつぽつ雨が降っている。    ふと、前回訪れたときに、一度泊まってみたいと思っていた、門司港 ホテルに予約する。
 午後5時。門司港レトロ街にある門司港ホテルにチェックイン。  デザイナーズホテルと呼ばれる美しいホテルだ。  海側の部屋に案内される。  関門海峡が目の前に広がり、関門橋も見える。  ときおりタンカーが通る景色は、私の大好きな風景だ。
 午後5時30分。このホテルに新進気鋭の料理人がいるというので、 1Fの「トラットリア・ボルトーネ」に行ってみた。  そんなに食欲が無いのでアラカルトで、少しだけ食べようとおもった けど、メニューがたくさんで、単品で食べようにも、想像がつかない。  悩んでいると、コース料理が、3800円というではないか。  ホテルのコース料理なら、1万円以上するとおもっていたから、コー ス料理にする。品数も比較的少ないようだ。  しまった。コース料理だと、パンにバターが塗れない。  左手がまだ自由に動かないからだ。 「パンに切れ目を入れてますが、全部お切りしましょうか?」といって くれる。  これだけで、いいお店だとおもってしまうぞ。
 空豆のスープが美味しかったなあ。  メイン料理のパスタが美味しかったのに、妙にボリュームがあって、 食べ切れなかった。デザートもお見事。これで3800円は安い!  午後7時。さて、この門司港ホテルはライトアップが美しいホテルと しても有名なのである。このライトアップが見たくて実は、このホテル にしたぐらいだ。  しかし見に行くことができなかった。  雨のせいではない。  横浜ベイスターズ対巨人戦のTV中継のせいである。  情けない。本当に情けない。  何でこんな業を背負ってしまったのだろうとおもう。  悪女ほど、入れ込みやすいものだ。
夜景のハズがTVの野球中継が映ってたりして
 しかし、ライトアップを見に行かなくてもよかった。  東京ドームに美しい花火が打ちあがった。  佐伯選手、鈴木尚典選手の3番、4番にホームランが出たのだ。  私は勝手にSS(ダブルエス)砲と呼んでいたのだが、今シーズン、 西武のカブレラよりも少ないチーム本塁打数のせいで、このSS砲は ずっと沈黙したままだった。  おまけに、5番の小川選手にまでホームランが!  クリーンナップ全員にホームランなんて、何10年ぶりだ?  優勝のシーズンにもなかった快挙なのでは?  今年、最高の試合を見ることができた。  せっかく今夜は、身体を休めようとおもっていたのに、忙しい、忙 しい。プロ野球速報を見るのに忙しい。地方に来ると、チャンネルが わからなくなる。  でもうれしい悲鳴とはこのことだ。  関門海峡に向って、ギャーオ!
 

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